呟きが咆哮へと変わる物語

SNSの圧倒的な隆盛りゅうせいによって、これまで「その他大勢」だったはずの人たちは、今や存分に主張できる場を持つようになった。

僕が利用しているツイッターなど、けた人なら一行の「つぶやき」だけで十分な説得力を持ちうるし、「つぶやき」も200や300積み上げれば、閲覧する側にとって一人の作家の短編小説集を読んだ時のような、個性の発露はつろも可能になる。

それだけみんな、自分を知って欲しかったということか。ここにいるよって、わかって欲しいんだ。
別にしゃに構え、他人事ひとごととして批評しているんじゃない。
人間、有名無名に本質的な差などないことが、白日のもとさらされたと感じているまでだ。
虚飾や装いは、良くも悪くも一昔前のものになりつつある。

僕自身どうかといえば、やたらツイッターに「いいね」や「リツィート」はするものの、意見を書き込むことはいま一切しない。
ある政治的な主張を大勢の人がツイートし、自分がそれぞれに「いいね」や「リツィート」を繰り返すだけで、不動なはずの強固な岩が動く経験を、何度かした。

権力を持たざる者にとって、SNSは強力な武器になったのだ。「その他大勢」のたった一つ共通の呟きが、かたまりとなって世界をつき動かす。それも寄せては返す波のように。これは人類の歴史上、初めての出来事だろう。
もちろん使い方を誤れば無垢むくの人を追い込む、取り返しのつかない凶器にもなってしまうけれど。

去年のある時期までは、ツイッターに毎日きっかり140文字打ち込むことを、一種のトレーニングとして自らに義務付けていた。
ちょうど今、毎日のブログ更新に挑んでいるように。

もちろん読んでくれれば嬉しいけれど、むしろネタは超どマイナーで誰も知らない東欧の現代音楽とか、ひねたものが多かった。
数年前に反応ゼロだったつぶやきが、今になって「いいね」がついたりするのも面白い。
つぶやいた当人はすっかり内容を忘れていて、却って新鮮な気持ちから、過去の駄文を反芻はんすうしたりしている。

そんな時代にあって、人工物の権化ごんげたる「ドラマ」など、果たして成立するのか。
SNSにあふれるき出しの個人とは対極の、大勢の手によって生み出された架空の人格。

どちらも許容されるかもしれないし、でも現状はSNSの勢いに、後者が押し流されようとしている感はいなめない。物語自体がパターン化し、新見がないのも一因か。

明日へ続く。

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