これが僕の生きる無知
抽象的にならざるをえず、うまく表現できるかわからないが、まぁやってみよう。
本日、最初にあった人物はカメラマンを自称していた。
今月末、ある記念撮影の具体的な内容を詰めるため、訪れたスタジオだ。
最初からとてもフレンドリーで、かといって相手を不快にさせないだけの礼儀も十全にわきまえた、いわゆる”できるやつ”だ。
スタジオ内に飾られた写真も、彼が全て撮影したという。
話していると興が乗ってきて、自分のスマホの中のお気に入りの画像まで披露を始める。
好きで仕事をやっているのが、存分に伝わる。
中には新郎新婦がウエディングの格好で、水中撮影したものまであった。
加工はせず、実際に当事者が水に潜ったものだという。
それどころかカラーグレーディング(ある映像を希望するカラーの状態に加工する作業)が嫌いで、色も一切いじっていないとのことだ。
これは現代の画像や映像制作において、きわめてまれなこだわりといっていい。
テレビでも映画でも、僕たちが普段目にするのは、かならずカラーグレーディングされたものだからだ。
僕ごときであっても、必要に応じて色調補正を行っている。そのほうが却って、自然に見えることもあるのだ。
ある意味すごいこだわりを持っているのだが、醸し出される雰囲気は真逆で、柔軟性に富んでいる。
それでいて一線はしっかりと守り、容易なことではこちら側の独自要求に応じない。そのぐらいサービスしときますと、安易な妥協がないのだ。
タフな野郎だと思いながら名刺を要求すると、「代表取締役」と肩書がある。
なんだ、スタジオ4店舗を経営するボスだったか。やり手の経営者というわけだ。
スタジオを辞した後、次に向かったのは、日本古来の職業の人物。
実はスタジオ側でかなりの制約を受けてしまい、それでも彼の務める場所で撮影したく、打ち合わせを行う。
結果はNG。
彼のいだく”あるべき姿”から、遠くかけ離れた条件になってしまった以上、そういう判断も宜なるかなと思う。
ここから先は、僕の考え方だ。
スタジオで会った社長は、仕事を楽しみ柔軟性にも富んでいて、おそらくは社員からの信望も厚かろうと思われる。
人を不快にさせず、こちらが想定した以上の可能性やノウハウを、惜しげもなく提示する。
ここまで書くと人として満点のイメージを与えるようだが、実際のところ深い付き合いをしなければ、接する相手は確実にそうした印象をいだくはずだ。
一方で後者にあっては、他者とのかかわりがきわめて限定される。人嫌いというわけじゃなく、自らに課した厳しいルールが、否応なくそれを要求するのだ。
極力「個」を排し、大げさに言えば日本という国に、わが身を捧げる苛烈さがある。
だから目先のメリットデメリットで、物事を判断しようとしない。古よりの習わしに、ひたすら身を置こうとするのみだ。
他者を魅了してやまない商売人と、損得よりも大事にしてる信念に従い生きようとする存在。
どちらがいい悪いではない。しかしどちらも生きていくことに、真剣であることは間違いない。
よって両者とも、尊敬に値する人物と言って良いだろう。
翻って、僕自身はどうだろう。
かつてのようにアイロニカル(嫌味とか皮肉っぽい)なわけではないが、こうした真面目さに欠けている自覚は充分にある。
そしてそれが悪いことだとも思っていないし、彼らをうらやむ気持ちもない。
毎日のブログの中、なんでもない日常の出来事を拾い、ただ思考し続ける。
もしかしたら、その行為の中から僕にとっての生きる解が、見出されるかもしれない。
だからって未解明のままでも、まるで気にしないが。
無知に終わる我が人生。それもまた、悪くない。