初詣(みたいな)

元来がひねくれているのか、新年だからと何の感慨かんがいかない。
対外的にはちゃんと挨拶するけれど、こちらHPは(現在いまのところ)個人的なスペースにしているので、形式的な表現はあえてしないでおく。

だからといって(本当は一番関心のある)政治的な話題も勘違いを受けるもとだから極力避けることにする。
ただ一点、懸念を申せば、世界的危機が表面化する年となるよう思えてならない。予言じゃなく、起きていること・これから確実に起きることをありのまま見れば、確率の高い予想となるはずだ。

あえて「主語」は置かないが、仕掛けてくるか暴発するか、かりに今年が無事終わっても、緊張は否応なく高まっていく。
一方で、日本には小さいなりに希望も生まれつつある。それも迫りくる危機に対し、時間的に間に合いそうもない。
昨年秋をもって、ラストチャンスは過ぎてしまった。国という固まりが能動的に歴史を変えることは、もうない。
相手が自滅するのを、待つのみの状態にある。

個人の事情として、国家の問題として、大げさでなく人類の歴史においても、意味は違えど今年が分水嶺となる。
新年を祝うのでなく、安寧あんねいを願うでもなく、今は祈るしかすべはない。
またそれで、個人のなすべきことに限れば充分だろうとも思う。日本という歴史の原点に帰ればよい。

1月1日未明、豊由氣神社とよゆけじんじゃもうでてきた。
ちょうど日付が変わったあたり。こんなとき神社にいるなんて、59年の人生で初めてのことだ。

驚いたのはその賑わいだ。
鳥居手前の比較的広い通りに、上りも下りも自家用車が縦列駐車じゅうれつちゅうしゃしている。
関係者が数名いるくらいだろうと思っていたら、参拝の人たちが列をなして順番を待っている。
当夜の様子は撮った動画を編集して、後日ご報告したい。


メジャーな神社に参拝者が押し寄せる光景なら、テレビなどで過去より馴染んでいる。
しかし衰退の一途をたどる田舎神社に、これだけの氏子うじこがやってくるとは思わなかった。
豊由氣神社は運営的に、先が見えている。じり貧の数10年を経て、収支は常に赤字を計上し続ける。貯えが底をつくまで、長くはかからないだろう。

その現状を好転させようと、有志の会を発足させたのが去年だった。
僕は2時過ぎまで神社にいたが、幼児まで含む参拝者はこの一夜に限れば、この上なく活況を呈したといえる。

絶望の中に、見えるとまでも言えない小さな光の存在を感じる。
むざむざ終焉しゅうえんを待つのでなく、微かな灯を目指して、手探りで進んでいこう。
絶望というくらい闇に圧倒され、為すすべなく立ちすくんだとしても、どこかにあるはずの出口を探るしかない。
あると信じて、再び歩を進めるしかない。

僕も日本も、まだ終わったわけじゃないんだから。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です